「リリィは死んでしまったよ」
著:ミキ
■あらすじ
なんてことはない、新しいとは言えない家の天井に出来た、大きなシミ。白い天井にうっすらと広がった茶色のシミは、いつでも私の部屋で、遊んでいる私のことを見下ろしていた。
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子どものころ、私は家が恐かった。
幼い時分から、私は随分と泣き虫だったように思う。虫を見ては泣き、親に怒られては泣き、転んだ小さな怪我で泣いた。
そのたびに、両親は苦笑したものだった。些細なことで私が泣くたびに、二人して頭を撫でてくれたことを覚えている。
あなたは本当に泣き虫ね、と。
私をぎゅっと抱きしめて愛おしげにそう言った母の腕の温かさを、覚えている。
友だち同士でのちょっとした喧嘩でさえすぐに泣いてしまう私にとって、本来であれば家というのはどこよりも安心出来る空間である筈だった。否、私にとって家というのは事実、どこよりも安心出来る空間だった。
家ならば近所の犬に吠えられることもないし、すれ違いざまに邪魔と言わんばかりに舌打ちをしてくる年上の子どもたちとも会わずに済んだ。休日は家に引きこもっているばかりだった私は、思えば両親を随分と心配させたに違いない。
私にとって家の外は、油断するとあっという間に取って食べられてしまうような恐ろしさに満ちたものだった。
お気に入りのウサギのぬいぐるみと、買い与えられたたくさんの本が私の世界だった。成長するにつれて、読む本は絵本から児童書、児童書から小説へと変わっていった。
けれど、不意に。
それに気付いたのは、いつだっただろう。
ふと、私は見下ろされていることに気付いたのだ。
なんてことはない、新しいとは言えない家の天井に出来た、大きなシミだった。白い天井にうっすらと広がった茶色のシミは、いつでも私の部屋で、遊んでいる私のことを見下ろしていた。
別に、人の顔のようだったとか、そんなことは一切ない。湿気の所為か、他の原因か、何の変哲もないどこにでもあるシミだ。だというのに私は、こう思ったのだ。
見られている、と。
それは子ども特有の、何の根拠もないただの思いつきだった。けれどその思いつきは、思い浮かんだその瞬間に幼い私の心を強烈に鷲掴んだのだった。
気付いた瞬間、私はそのシミが気になって仕方がなくなってしまった。本を読んでいるときも、ゲームをしているときも、友だちと遊んでいるときも、私はいつだって見下ろされていたのだ。もしかしたら、私が気付くよりもずっと前から。
幼いころ、暗がりの鏡に映った自分の姿を見て大泣きしたことがある。泣き虫であると同時に酷く恐がりだった私にとって、そのシミはあっという間に恐怖の対象になってしまったのだ。
お母さん、
お父さん、
家の中にいて私は、いつも二人のどちらかにくっついて回っていた気がする。リビングにいるときも、別の部屋にいるときも、自分の部屋にあるあのシミが気になって仕方がなかった。
その時には私はもうすぐ中学に上がろうとしていたから、さすがにその考えを口にしようとは思わなかった。ただ一人で、じわりと広がる恐怖と戦っていたのだ。
じわり、
あのシミと同じように、音もなく胸に広がった。広がって、染みて、私の胸から離れない。
きっとこの恐怖はもう取れないのだ、と思った。年月を重ねたあの天井が二度と綺麗にはならないように、この恐ろしさも私の胸にこびりついて、拭い去ることは出来ないのだと。
いつの間にか私にとって、家全体が恐怖の対象に変わっていた。
ご飯を食べているときも、お風呂に入っているときも、ただただ落ち着かなかった。私にとって、安心出来る場所はどこにもなかった。
ひた、
家の中で恐怖は常にともにあって、私に寄り添っているのだ。お母さんの隣で、お父さんの隣で、大好きな両親と一緒になって恐怖は笑っていた。
元々口数の少なかった私は、中学に入ってから家の中では黙りこくるばかりになった。難しい年頃だからと思っていたのか、両親は、心配はしても過剰に世話を焼こうとはしてこなかった。それが、私を少しだけ慰めた。
中学に上がって、私は美術部に所属することにした。運動は得意ではなかったし、だからといって部活もせずにすぐに家に帰ろうという気にはなれなかったからだ。
幸いというべきか、自分にはそれなりの才能があったらしい。描き始めてみると、上達は思いの外早かった。そうなると私も描くことが楽しくなってきて、どんどん描くことに没頭するようになった。小さな頃から読書以外の趣味を持たなかった私が何かに夢中になっているのが嬉しいのか、両親も協力的だった。
絵を描く私の隣には、いつだってひたりとしたあのシミがあった。
いつからかこの恐怖は、家の外でも私に寄り添うようになった。学校で授業を受けているときも、掃除をしているときも、恐怖という感情は友だちのような顔をして私の隣に立っていた。
ひそり、
佇む恐怖は、いつも三日月のような口で笑っていた。誰にも理解されない恐ろしさを抱えて、私は生活しなければならなかった。
眼を閉じるたびに、天井のあのシミが脳内にちらついた。薄く茶色い、いつからあるのかも判らない些細な汚れ。
きっといつか私はあのシミに殺されるのだ、と半ば本気で思いこんでいた。あの茶色はいつか色を濃くして、面積を増して、そうして一面真っ黒になった天井に私は吸い込まれてしまうのだ。
そんな馬鹿げたことを考えていた私は、それでも律儀に毎日シミの待つ家へと帰る生活を続けていた。思えば、単純に家に帰らないという選択をするだけの勇気もなかったのだろう。
いつかあの茶色いシミに人の口が浮かんで、私に向かって喋りかけてくるのだと、何の根拠もない妄想が浮かんで消えなかった。
その恐怖は中学を卒業して、高校に入学してからも私につきまとった。いつもいつも、私はあのシミに迎えられていた。まるでそれが当然の権利のような顔をして、いつでも恐怖は隣にあった。
真っ暗なリビングでそろりとスイッチに手を伸ばすとき、誰かの指に手が触れるのではないかと怯えた。お風呂で眼を瞑って髪を洗っているとき、後ろから誰かに肩を叩かれるのではないかと思うと熱いシャワーを浴びているはずなのに背筋がぞくりとした。そんな毎日のなかで、私の心はすり減るばかりだった。
実際にはそんなことは全くなく、つまりは全部が全部私の妄想でしかなかったのだけれど、いつまでもその想像は私の頭を離れようとはしてくれなかった。
なんでもないように、シミは私のことを見下ろしていた。最初にこのシミを見つけた、あの瞬間と同じに。
薄茶のシミはもちろんそれ以上濃くなることも広がることもなく、小学生のころと同じように私の部屋の天井を汚しているだけだった。
そういえば、こんなこともあった。
高校生のあるとき、ふと私はそのシミを見上げ続けてみたのだ。それも、数分とか数十分とかではない。夕飯を食べたあと寝転んだ拍子にあのシミが視界に入って、そこから何故か視線を逸らすこともせずに、何時間も。
日付が変わるころになっても、それを過ぎても、シミはただのシミとして天井に存在していた。
どんなに凝視していても、睨みつけていても、怪しい動きをするようなことは一切なくただ淡く広がっているだけだ。一つの変化も見逃すまいとじっと注目していたところで、シミはただのシミだった。
多分、人生の中で一番無駄な数時間だっただろう。そのうちに私は、いつの間にか眠気に負けて眠ってしまっていたのだった。
眼が覚めてからもやはり変わることなく、私の人生の半分近くをともに過ごしたそのシミはいつものように私を見下ろしていた。それはきっと、私が眠っている、その間すら。
高校を卒業して大学に入学してからも、やはり恐怖は心に巣食って、脳裏には部屋の天井に居座る薄茶色がちらついた。取り立てて特別なこともなかったあの日は、けれど。
ぞわり、
平然として私の部屋の天井に住み着く、そのシミを。
ただ見上げていただけの数時間、肺の後ろ側が寒くなるような恐怖を、今でも覚えている。
大学卒業を期に、私は実家を出た。住み始めたアパートは古くて狭いがきちんと手入れのされた、住み心地の良い部屋だった。
新しい部屋にはあのシミはなく、当たり前の事実に随分とほっとしたことを覚えている。ずっと私の中に住み着いていた恐怖も、今では感じなくなっていた。
時折、ふらりと実家を訪れる。私に甘い家族は、私が出ていったあとも部屋をそのままに残してくれている。そうして部屋に入った私は、いつも真っ先に上を見るのだ。
相変わらずそのシミは、当たり前のような顔をして私の部屋の天井の一角を汚している。
そういえば、と私はたまに思い出す。
ずっと一緒にいた私の友だちは、どこに行ってしまったのだろう。
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